文章は比較的読みやすくて理路整然としているのだけど、読み物としては面白くないなぁと思いつつ読み進めた。その原因は、夫に「です・ます」調で話しかける妻、著者の几帳面で潔癖症気味な行動、そしてプライドの高さを感じさせる記述が鼻につくからだと、終盤に至って理由がわかった。しかし、そのときには、逆にそれを「けっ」と思いながら楽しむ余裕もでてきて、読み物としても面白いかもと、前言撤回。
内容については、がんを患っている方、その家族に役に立つのはもちろん、現在大きな病気を抱えていない人にもお勧め。がんの原因は食生活であると思った著者が実践したのはゲルソンという人が考案した食事療法(ゲルソン療法)。塩分抜きの野菜中心食なのだけど、日本人のライフスタイルからすると厳しすぎて働きながら実践するのは困難。そのため、著者はこれに少し改良を加えて独自の、星野式ゲルソン療法として実践した。
当初は自分の病気克服のためであったのが、次第に周りに理解者が増え、現在では、講演会やがん患者への指導も行っているらしい。
著者の星野医師は5年生存率0%というがん発症から15年を経て、いまもお元気で活躍中。がん発症前はグルメを自認して肉食、油物中心の食事だったそうだけど、ゲルソン療法のおかげで、いまは病気の前よりも体調がいいらしい。がんの再発の危険はほぼないそう。
がんになるのは、食生活が原因と書いてあった。油物や塩分を取りすぎるのがいけないらしい。ただ、それを認識している医師は多くはないようだ。
がんに限らず、食生活の乱れは病へ繋がる。だから、ゲルソン療法ほど厳格でななくても、健康なうちから低塩分で野菜中心の食生活を心がけることは重要だと思う。そうは言ってもなかなか実践はできないのだけど、がんになってからでは遅いので、いまのうちから頑張って食生活改善せねば、と反省しきりなのだった。私の場合は、特に、間食のお菓子を辞める努力が必要かも。
ゲルソン療法は納得できたのだけど、星野医師が実践しているという尿療法には大きな抵抗感がある。本書の記述内容から、それがとても体によくて免疫力を高める効果も大きいということは納得できたのだけど、実際にやるとなると…。それをやらなければいけないくらい追い詰められる前に、食生活、改善しよう…。
星野医師の場合、この療法を文献から探し出し、実践しよう決意したのは他ならぬご本人なのだけど、実際に食事を作っていたのは奥様。本書の中でも奥様への感謝の言葉はいくつもでてくる。それは間違ってはいないのだけど、なーんか違和感がある。偉そうに言ってるクセに、結局自分で作っちゃいないんじゃん。味の薄いまずい食事で、いかにも自分ばっかり苦労しているようなこと言っているけど、ほんとに作る方の苦労がわかっているのか、と突っ込みたくなった。いや、奥様がとても苦労して作っているという記述はあるのだけど、本人が実際に作ったという記述がないから、つい、そう言いたくなってしまった。
しかし、このご夫婦はこれでいいのだろうな。著者は、奥様が初めて作ったゲルソン食に思わず「まずい」と言ってしまったそうだ。まぁ、それはいいのだけど、その後もまずいと思いながら食べ続けたそう。
いくら塩分がないからと言っても、それなりに野菜の味もするだろうし、そこまでまずいだろうかと思いつつ読んでいたら、案の定、奥様は「ずっと前からこういう食事がいいと思っていたんですよ」「自然が与えてくれるものは、できるだけそのまま食べたほうがいいと思っていました」とおっしゃったという。その言葉に激しく共感。
これは奥様の本心だな、と思ったのもつかの間、次の行で著者は「嘘でも、そう言ってくれることがうれしかった」「いくら自然食派といっても、ゲルソン食が美味しいとはお世辞にもいえない。それでも妻は、野菜の味がよくわかる、といって私と同じメニューを食べてくれた。」とほざく。確かに、美味しくはないのだろうけれど、それが体にいいのなら、奥様は夫が思うほどまずいとは思っていなかったのではないだろうか。それを、いかにも奥様がまずいのを我慢して自分に付き合って食べているかのように書かれていたことに違和感を覚えた。
グルメな著者は、料理上手な奥様の工夫にもかかわらず(無農薬の食材探しからしてくれる奥様の苦労には常に感謝していたようだけど)、ゲルソン食はまずいと思い続けていたらしい。しかし、さすがに何年も食べ続けているうちに、やっと、野菜の味というものが分かるようになってきたようだ。遅いよ。
近所に野草を摘みに行ったり、有機野菜の販売所を探したり、料理に工夫を凝らしたり、星野医師の奥様は元来こういうことが好きなんだろうなと感じた。夫が思うほど、それを苦には思っていないと思う。むしろ、使命感のようなものができてやりがいすら感じているのではないかと思えた。病気のおかげで、夫婦関係も良くなったのではないかと思えてしまう。夫が飲酒して(ゲルソン療法では飲酒はダメ)弱音を吐いてもゆったりと対応する奥様の余裕に、著者はかなり救われているように思えた。
それにしても、この療法は、食材を厳選しなければいけないのでお金がかかりそう。そして一から調理しなければいけないから手間もかかる。ある意味、贅沢な食事だ。手間の大部分は奥様が負担している。その分、夫は働いて稼いでいる。一人暮らしだったら大変だ。家族の支えと協力があってこそ実践できる療法である。
興味深かったのは、人間のゲルソン食の残り物を与えていた飼い犬のフィラリアが数ヶ月で根治してしまったというところ。病院では余命幾ばくもないと診断されていたそうだ。このエピソードが何年前の話かわからないけれど、10年くらい前なら犬に人間の余り物を与えたりフィラリア予防が徹底されてなかったりというのも当たり前だったと思う。今だったら、フィラリアにかかる前に予防するのだけどね。それにしても、ゲルソン療法でフィラリアまで根治するのかと驚きだった。
抗がん剤の効果についてはいろいろ言われているけれど、効くがんと、効かないがんがあるらしい。それを素人が判断するのは難しい。病院の医師は、抗がん剤であろうと放射線であろうと、患者を早死にさせたくてそれをするのではないだろうし、良かれと思ってその治療を勧めるのだろう。患者がどういう判断基準で抗がん剤を拒否するかは、実際の場面になってみないとわからない。でも、選択肢のひとつとして、抗がん剤ではなく、ゲルソン療法などの代替療法があるということをあらかじめ知っておいても損はないと思う。
私はがんではないけれど、膠原病という、現代の医学では完治しない病にかかっている。がんほど死と直結しないものの、薬の副作用で免疫力が落ちているためにただの風邪でも健康な人よりも死に到る可能性が高い。そして、体力が落ちているのでフルタイムでの労働は無理。心境的には、がんの人よりは切迫感はないものの、健康な人よりは病人の気持ちがよく分かる。
このエッセイを読んでいて、共感というか、共鳴する部分がとても多かった。この著者の感じ方や考え方は私に近いような気がする。もちろん、全部ではないけれど。
なにより、著者は40歳独身ひとり暮らし。まだ老後を考える年代ではなく、無条件に長生きすると信じて生きてきたのに、突然、死というものが身近になる。長年払ってきた年金だって、もらえるようになる年まで生きられるかどうか…それどころか二、三年先の予定さえおぼつかない。
私が病になって、一番ありがたいと思ったのは家族の存在だった。しかし、順番からいけば両親は先にいなくなり、私は独身のままなら老後はひとりぼっちだ(弟はあてにならない)。漠然とした不安。経済的にも、年金をちゃんと払っていけるのかすら不安。
この本を読んだきっかけとなったのは叔母のがんが発覚したことだったのだけど、その叔母夫婦には子どもがいない。私が子ども代わりとなって支えてあげよう、と思うものの、そこはやはり別世帯の事なので、自分の家族ほど深く関わりあえないのだった。自分の親ならば、無理矢理にでも抗ガン剤治療をやめさせる事もできるかもしれない。でも、叔母の治療にはそこまで口を出せなかった。
翻って、我が身を考えれば、将来、このまま結婚もせず、子どももいない場合、いざ大きな病にかかったら、すべて自分一人で事を運ばねばならない。治療法を決めるのも、病院で身の回りのことをするのも、経済的な負担もすべて自分。まさに、この本の著者と同じ状況だ。
家族についてのサポートグループについて言及している箇所で、著者は家族は「ある意味患者以上にストレスフルだ」と書いている。「患者は当事者だから、がんについて、どんな受け止め方をしようが自由だが、家族には、それがない。患者ががんについて言うことが絶対となり、反論も、感情を表すことも許されず、パートナーまたは共同体であるべき家族が、支配-被支配官界になってしまう。」
これはよく当たっていると思う。私自身、家族(または親類)が病気になってお見舞いに行くのはとても憂鬱。自分が入院しているほうが数倍気が楽だと思う。
逆に、自分の同居している両親がストレスフルかというと、そうではない気がする。気がするだけかもしれないけれど、元来、私の両親は楽観主義で呑気なのだ。呑気すぎてそれが私のストレスになったこともある。しかし、呑気がストレスになるというのも変な話なので、私自身の考え方を180度変えて、思いっきり両親に寄りかかることにしてしまったら楽になった。その家族ごとに、病人を囲む状況は違うのだろう。
この本の中でも著作が挙げられている竹中史良医師が、最後に解説を寄せている。竹中医師はがんの専門医で、自身もがんを患った経験を持つ。その竹中医師が、「本書では、著者が自らのがん闘病を可能なかぎり客観視し、闘病中にもかかわらず、間延びしたと感じさせる程の安定感がある」と評している。
それはとても当たっていると思うのだけど、私は読みながら「この人の感じ方や文章への変換の仕方は自分ととてもよく似ている」と思っていたので、この一文を読んだときに、「ああ、私の文章も間延びしているのかも」と思ったのだった。この場合の間延びっていうのはネガティブな意味ではなくて、呑気、楽観的というような意味合いだと思う。
内容にももちろん共感したり、感心したりした部分が多かったのだけど、この著者の文章は見習いたいと思う部分が多かった。さすがプロだ。私もこういう風に自分の考え方を表現できたらいいのに、と思ったのだった。この人ががんになったのは、ひょっとしたらこの本を書くためだったのではないかとまで思った。もちろん、そんなことはないのだろうけど。
著者ががんにならなかったらこの本は生まれなかったと思うと、不謹慎ながら、がんに感謝すらしてしまい、そのあと著者には非常に申し訳ない思いでいっぱいになった。
しかし、病が仕事に結びつく職業というのもあまりないから、それが収入に結びつくというのはある意味うらやましい。私のこんなだらだら文章なんてなんの価値もありませんから。
大奥の文化を知りたいのなら読む価値はあるかも。大奥女性の髪型とか、衣装とか、部屋割りとか、将軍との夜の営みとか。
髪型や衣装についてはもっと図があるといいと思った。文章だけでは何が何やらさっぱりわからん。ある程度の基礎知識がある人が読めば面白いのかもしれないけれど、まったくわからない人が読んでも、ほんとにまったくわからない。
しかし、ドラマ「大奥」を見てなかった人は大奥での人間模様やエピソード満載なのでそれだけでも楽しいと思う。
噂に違わず面白かった。遊女は切ない。しかしただ単に切ない女ではなく、遊女なりのプライド、生き方があるのだ。恋をして、恋にやぶれて、仕事に燃えるものもあり、自害するものもあり。そして恋人と共に外の世界に飛び出してゆくものもあり。
幾人かの遊女たちが描かれているのだけど、それぞれのエピソードが繋がり合って、意外な真相が明かされる。織りなされる人間模様が面白い。そして、遊女の世界はやっぱり、儚く美しい。女のための官能小説の題材としてはもってこいなのだった。(官能なしでも十分いけるけど)
霧里、朝霧、茜、緑、八津、三津、東雲…出てくる名前がいいなぁ。
吉原遊女のお話はこれ一冊でお腹いっぱい。この人の、別の小説が読んでみたくなった。
そうそう、あとね、この本の装幀がすごく好き。半分ジャケ買い。
この方の性格のせいか、あっけらかんと明るい闘病記となっている。同じ病気の人が元気になるような内容…だと思って読んだのだけど、明るすぎて読んだ方は逆に落ち込むかも。
この方よりも軽い症状、または同じ程度の病ならいいけれど、もっと重い人は、こんなあっけらかんとしていられない。
確かに、軽い病気ではないし、子宮全摘は身体的にもダメージは大きいのだけど、生命の淵を彷徨うような症状ではないのだ。もっと症状が重ければ、抗ガン剤やら放射線やらの治療も加わって、その副作用に苦しめられる。ガンの治療の辛さはそこだと思う。
そうは言っても、自覚症状から診断、手術にいたる経過や、かかった手術費用や保険で降りた金額などは参考になる部分が多い。また、安楽死、尊厳死についての法律的な見解も興味深かった。本人が強く望んでも安楽死は簡単にはできないのだ。
読みながら共感するところも多い反面、おいおい…と突っ込みたくなるエピソードも満載。入院中に飲酒して大変なことになったり、病院を抜け出して仕事したり。
もともとパワフルな人のよう。強いんだろうなぁ。だから、読みながら、あんたはそうかも知れないけど、普通の人はそうじゃないだろって思っちゃった。自分が病気になったから病人の気持ちがよくわかったって本人は思っているかもしれないけれど、もっともっと弱い人もいっぱいいるのよ。
だから、逆にこの人とは病気の苦労を分かち合えないかもしれないと思った。同じ病気になっても、考え方は人それぞれなんだなぁ。この人みたいに即決即断できる人って、珍しいのではないだろうか。
だからね、これ読んで元気になる人と、これ読んで落ち込んじゃう人と、両方いると思う。病人に読ませるのは要注意。だけどもう叔母さんに渡しちゃった。落ち込まなきゃいいんだけど…。
ハリー・ポッターと謎のプリンス ハリー・ポッターシリーズ第六巻 上下巻2冊セット (6)松岡 佑子(翻訳) 静山社 ¥ 3,990 [単行本] 2006-05-17 ISBN:9784915512575 / ASIN:4915512576 |
そういえば、前回の不死鳥の騎士団はやたらと登場人物が多くて読んでいる途中で誰が誰だかわからなくなってしまったのだけど、今回はそういう混乱はなかった。
相変わらず、この日本語訳はどうなんだろう…という箇所が多くて読みながら気を取られてしまった。原文で読めないから仕方ないのだけど。
ハリーはダンブルドアと共に、過去と現在を行き来しながらヴォルデモートを撃退する方法を探る。しかし、ストーリーの大きなテーマは「恋」。ロンもハリーも恋をするのだった。なんか、日本的奥ゆかしさはなくて、あまり気持ちのいい恋ではないのだけど。
ストーリーは盛り上がったところで7巻に続く…という感じで終わり。英語版はすでに発売されているけれど、日本語版が出るのはまた一年後くらいなんだろうか。その頃にはまたストーリー忘れてるだろうなぁ。
限りなく悲惨なのだけど、ある意味では滑稽な戦場の様子が生々しく伝わってくる。なぜここで死ななければならなかったのか。わからないまま死んでいった人たちがどれだけいたのか。戦争の愚かしさが胸にしみる。
『猫と針』演劇集団キャラメルボックス
作:恩田陸 演出:横内謙介 出演:岡田達也、坂口理恵、前田綾、石原善暢、久保田浩
キャラメルボックスの俳優、岡田達也のプロデュース公演。脚本は作家の恩田陸。演出は扉座の横内謙介。出演者はキャラメルボックスの俳優と客演の久保田浩。
恩田陸の小説って「チョコレートコスモス」(キャラメルボックスを取材して書いたらしい)しか読んだことがないのだけど、小説で読むよりも舞台やテレビドラマで観てみたいと思った。全体的に低体温。小説で読んでいても淡々としていて、読んだ後の充実感というのがあまりなかった。決して面白くないわけではなかったのに。テレビなどなら、映像としてもう少し楽しめるのではないかという気がした。
今回の公演も、ある意味淡々とした低体温な舞台だった。でも、好き。小説よりもいい。
高校の同級生が集まり、そこにいない人の話をする。映画監督になった友人の撮影に協力するという名目で集まったのだけど、偶然にもその日に別の同級生の葬式が重なる。殺されたというその同級生の死の真相、高校の文化祭でのミステリアスな出来事、過去と現在のさまざまが交錯し、それぞれの歩んできた人生や現在の問題点が徐々に明かになってゆく。
密室の、会話劇。出演者は全員喪服。セットは超がつくほどシンプル。モノトーンな舞台からはおしゃれ感も漂う。こういうキャラメルボックスも、いいなぁ。
演劇集団キャラメルボックス
http://www.caramelbox.com/
『ウィキッド』劇団四季 四季劇場 海 2007年6月17日-2008年4月6日 作詞・作:スティーヴン・シュワルツ 脚本:ウィニー・ホルツマン 原作:グレゴリー・マグワイア 演出:ジョー・マンテロ 出演:沼尾みゆき、濱田めぐみ、小粥真由美、森以鶴美、李涛、金田暢彦、武見龍磨、松下武史
とにかく楽しい! 四季にしては(と言ってはなんだけど)衣装がとてもかわいくて、最初からなんか幸せな気分になった。セットも、ゼンマイ仕掛け、おもちゃの国のようでかわいい。
「オズの魔法使い」から着想されたストーリーも面白かった。「オズの魔法使い」はだいぶ前に映画を見たけれど、話はすっかり忘れている。ドロシーの家が竜巻で吹き飛ばされて、着いたのがオズの国。気球に乗ってやってきた魔法使いが支配していて、国民は悪い魔女に困っている。っていう話だったかなぁ。
「ウィキッド」のストーリーとおぼろげな記憶をつなぎ合わせると、吹き飛ばされてきたドロシーの家が、悪い魔女の妹を下敷きにして退治してしまって、そのあとドロシーは例のブリキ男と臆病なライオンとかかしと出会って悪い魔女を退治。っていう話だった気がする。
「ウィキッド」は「オズの魔法使い」を知らなくても楽しめるけど、知っていたほうがもっと楽しい。舞台を見た後に、「オズの魔法使い」を見たくなった。
肝心の「ウィキッド」のストーリーはというと、「オズの魔法使い」に出てきた「悪い魔女」は実はいい魔女で、オズの国を支配している魔法使いが実は悪いヤツだった、というもの。
後に「いい魔女」になるグリンダと、「悪い魔女」にされてしまうエルファバは大学の寮のルームメイト。お嬢様でかわいくてみんなの人気者、でもちょっとお馬鹿のグリンダと緑色の肌を持っているために孤立してしまっているけれど優等生のエルファバ。二人は最初は対立するのだけど、次第に友情を深めてゆく。
なにがいいって、グリンダのお馬鹿っぷりがキュートでかわいいくて最高。衣装もくるくる変わって、なんだかすごく楽しい。私の中では、どう考えてもグリンダが主役。グリンダを演じた沼尾みゆきさんは歌もとってもうまくて、はまり役だった。
エルファバを演じた濱田めぐみさんはすごく好きな役者さん。だけど、今回はグリンダに釘付け。…とは言え、エルファバあってのグリンダ。この対照的なふたつの役がお互いに引き立て合っているのは間違いない。
前半はほんとに楽しかったのだけど、後半はエルファバが「悪い魔女」とされて追われてゆくのでちょっと暗くなって、最後もなんだか寂しい終わり方だった。いちおう、ハッピーエンドなんだろうけど。
しかし、一回では物足りない。通いたくなるミュージカル。また行こう。
驚いたのは、夏前に病院に行っていたのに、秋には不調を感じていること。検査を怠っていたというわけではないのだ。しかし、不調を感じてから病院に行くまでが長い。百万回言われただろうけど、もっと早く病院に行っていればよかったのに…。
でもね、本人にしかわからないよねぇ。私も卵巣のう腫のとき、「なんでもっと早く来なかったの」と医者に言われたのだった。卵巣のう腫は痛くも何ともないから、ちょっと違うのかもしれないけど。
洞口さんは38歳でガンの宣告を受ける。医者の説明を聞きながら涙がポロポロと流れたらしい。ショックは相当なものだったようだ。
うーむ。それならなぜもっと早く病院に行かなかったのか…改めてそう思ってしまった。客観的に見れば自業自得…。
そしてそのあとの治療法にも迷う。手術か、放射線か。そして、治療をやめたいとまで言い出す。おいおい。
思い出したのは、絵門ゆう子さん。彼女もガンの宣告を受けてから紆余曲折して一旦は治療をやめてしまう。そして悪化。その後再び治療を始めるが、そのときにはすでに手遅れ。若くして亡くなられた。
病になってみると、端から見れば不可解とも思える行動をとってしまうことってあるんじゃないかと思う。さんざん迷ったあげくに一切の治療を止めてしまうとか。
ガンなどの重い病気の場合は特に、肉体的な治療と同じくらい精神的なケアが必要なのじゃないかと思う。治療を、精神科とセットにすればいいのに。
だって、まったくの素人がいきなり生命にかかわること(治療法)でこちらとこちら、どちらにしますか? って聞かれたって究極の選択。精神的に不安定になるのは分かり切ったことじゃないんだろうか。
私自身は、「死」そのものに対してあまり恐怖心がなくて、自分の手術の前夜もけろりとしていて看護婦さんに驚かれたくらい。肉体的に痛いの苦しいのは嫌だけど、麻酔中に死んじゃうなら別にいいか…って感じだった。
だから、手術前に不安定になったり、死ぬかもしれないという思いで不安になるというのはよくわからない。
子宮を取ることに関しては微妙。卵巣のう腫の手術のとき、卵巣が両方腫れていたら取ることになるかもしれないと言われたけれど、そうなったらそうなったで仕方ないなと思った。私は子供を産みたい願望は強いほうだと思っていたのだけど、意外に平気だったのでこれには自分でちょっとびっくり。
産めなくなったらそれはそれで他に方法があるはずだし、子ども産むだけが女の幸せじゃないなず。結局、そのときの手術では卵巣は片方全摘出で、もう片方は一部切除。子どもを産める可能性は残ったのだった。
その後、膠原病(多発性筋炎)を発症して現在も治療中のため、今の段階では子どもを産むのは無理かも。産めないことはないけれど、かなりリスクが高い。そこまでして産みたいかどうか…。まだ結婚もしてないから、相手次第なところもある。
ガンや膠原病に限らずちょっと重い病気だと、治療そのものも辛いけれど、その最中や後の精神的なダメージがもっと辛い。洞口さんも仕事復帰後に発作に見舞われ、不安障害と診断されたそうだ。
なんとなく、この不安障害こそ、事前にもっと予防できたのではないかという気がした。治療と社会復帰でこういう症状を訴える人は多いんじゃないかなぁ。治療と平行して精神科などのカウンセリングを受けることがもっと当たり前になればいいのにと思う。