医学は日進月歩。治療法は数年で格段の進歩を遂げている。当時は治らなかった癌も、今は治せたり、昔は「医師におまかせ」だったのが、今では「説明と同意(インフォームド・コンセント」が当たり前になったり。看護師という言葉も、最近やっと普通に使われるようになってきたが、この本では看護婦。以前はこれでなんの違和感もなかったのだから不思議。
著者は長年外科医として癌治療に携わってきて、五十代半ばで自らも大腸癌を患う。そこで、患者としての立場に立ってわかったこと、そして医師として多くの患者と接してきて感じたことなどがこの本には綴られている。
前半では自らの闘病についてや、同僚医師らの癌闘病と死の様子などが語られる。患者本人に徹底的に病名が伏せられる様子(ときにはカルテや検査結果の改ざんもいとわない)は、とても容認しがたいのだけど、当時としてはこれば普通だったのだろう。
私自身はこれが患者への「思いやり」だとは思えないのだけど、著者としては深い「思いやり」からの行為だ。それを受け取る側(患者)も医師の「思いやり」を痛いほど感じ、本当の病名を隠されているのではないかと疑いながらもあえて問い質そうとはしない雰囲気も感じる。
医師側としては、本当の病名や余命を知らせることで患者が落ち込むのではないかという懸念をしているのだが、たとえ落ち込んでも、そこから立ち上がれる人は多いはずだ。そして、その後の生を慈しみ大切に生きることができるのではないかと思う。告知しないということは、そういう権利を医師の一方的な「思いやり」で患者に与えずに死を迎えさせることになり、それはとても残酷なことだと思う。
しかし、告知することによってパニックになったり、うつ状態になることも十分考えられる。そのために精神科医などと連携してメンタルケアをする必要性は感じる。告知することやその後の精神面でのサポートなどをすべて外科医や内科医に任せるのは荷が重すぎる。告知しない、というのはその後のサポートなどに手が回らないという側面もあったのではないかと思う。
後半では、著者が内戦後のビアフラで医療活動をした体験が語られてる。まともな医療設備がない状態での診察や手術。ネイティブドクターと呼ばれる祈祷師による治療によって適切な処置を受けられなかった患者や、日本では見られない狂犬病の患者の処置、戦争による銃創などのけが人、極限状態ともいえる場所での医療活動。
こういう活動を経験しているからこそ語れる生死感があるのだろうと思えた。手の施しようのない狂犬病患者を見捨てるしかない状況、毒蛇に噛まれた手を切断する手術を拒否して死んでいった若者、カルテに残る各国の医師の記述、現地の人々の純粋さ。
日本の医療現場の話では、移植医療についても触れられていて興味深かった。移植の必要性を感じる気持ちは痛いほどわかるが、著者としては臓器移植には反対であるという。脳死移植ではまだぬくもりのある、心臓の動いている人間から臓器を取り出すのだ。生体移植でのドナーの体に及ぼす影響はよくわかっていない。移植医療に関しては読みながらとても共感した。
少し昔の話なので、最新の医療の現場とは多少ずれているのだけど、医療と生と死について、考えさせられる一冊だった。医師として、診察を受けたいかどうかと訊かれるとちょっと考えてしまうのだけど(告知でウソをつかれるのはつらい)、著者の竹中医師は人間として尊敬できる方ではないかと思ったのだった。