貴婦人AのAというのはロシアで革命時に殺されたとされる皇女アナスタシアのイニシャル。しかし、アナスタシアは革命を生き延びたのではないかという憶測がささやかれている。
主人公の女子大生は家庭の事情から亡くなった叔父の奥さんである亡命ロシア人の叔母と同居することになった。叔母はところかまわずAという文字を刺繍し続ける。叔父の遺産である膨大な数の高価な剥製や毛皮にも。その様子を暖かく見守る主人公。そして、彼女たちを取り巻く奇妙な男性陣。
主人公の恋人は一種の強迫症で、複雑な儀式がないと扉を通れない。儀式は常に成功するとは限らない。そのために、旅行先のコテージの中に入れず外で夜を明かしたり。でもそんな面倒臭そうな男でも主人公は決して見放したりはせずに常にそばに寄り添おうとする。彼のほうも彼女と彼女の叔母のために自分のできる限りの手伝いをする。二人の関係は揺らぐことなく普遍的にも見えてちょっと羨ましい。
毛皮や剥製を目当てに近づいてきた怪しげなフリーライター。オハラと名乗るこの男性はかなり胡散臭い。叔母さんのためを装いつつ、実は素晴らしいジャガーの剥製のために叔母さんに近づく。叔母さんが幻の皇女アナスタシアではないかと分かると、マネージャーのように甲斐甲斐しくスケジュールを組み、人々との面会を設定する。
叔母さんの記憶はアナスタシアらしくもあり、そうでなさそうでもある。曖昧がいいのだ。主人公はオハラをうっとうしく思うのだけど、叔母さんは意に介さない。次第にオハラは叔母と主人公の生活に深くかかわってくる。そして、主人公の予想通り、不正を働いていたことも発覚するのだが、叔母の心を乱さぬように事は静かに収まる。
不正を働きつつも献身的なオハラ。浮世離れした叔母さんと対照的に世俗的なこの人物になぜか親近感を覚えてしまう。オハラは最初は悪人で、心を入れ替えて善人になったわけではない。最初から最後まで、オハラはオハラなのだけど、最初は胡散臭いと思っていたのに、なぜか最後にはこの人に愛着が沸いてしまった。これが小川洋子の小説の魅力なんだろうなぁ。